「彫刻」と「工芸」

 昨日お邪魔した展示会のディスカッションの中で、気になったことがあったので別に書いてみる。
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 主催者・松井勅尚さんが展示のテーマである『彫刻と工芸の間で』ということについて触れて居られた中で「工芸的な、、と言う表現は彫刻界ではネガティブな(批判的な)言葉だと捉えられている」と言ってみえた。
 松井さんの言葉の中に、「それだけではいけないのではないか」という問いかけが含まれているように感じたので、今回のコラボレイトにはその辺りの意味合いも有るのかなと思ってみた。
 確かに、彫刻家の作品を見るに、特に年齢の若い人の作品で、工芸的なものを否定することはおろか、安直なコンセプトのもとに、そこいらへんのものを幼稚な技術でくっつけた印象を受けるものが多かった。自らの感覚を自由自在に具現する手段である技術が稚拙なままで、素材への理解も希薄なままで、「口で表現」しなければ収まらない立体作品の方がよほどネガティブに感じられたのは僕だけでは無いと思う。
 逆に馬渕さんの作品は見るだけで圧倒されたし、同じ素材を扱っている自分から見れば、とてつも無い集中力、知識の集積が含まれていることを感じさせられた。庄司さんの作品にも日本の木工というジャンルの黎明期から 長年 木工に心血を注がれた結果を、丁寧な細工や 素材への愛着から生まれる形に 見て取ることが出来た。

 工芸的であるかどうか以前に、安直な製作姿勢を語るべきであろう、それは製作をとりまく環境にも問題があるように思える。
 彫刻は本来、彫り刻むことだ。素材や具象・抽象にかかわらず、手間をかけて素材を変形させ形を作る、それだけのことだ。それがいつの間にか、現代美術の台頭とあいまって、ちょこちょことくっつけたり並べたりしただけの、ワケのワカラナイものに題名を付ければ作品になってしまうという世界に一部が変わってしまった。
 日常の些細なことや自然の一瞬の動きの美しさと、人為的な刹那主義は別物である。人為的なものに「安直さ」が与えることのできるものは、ちっぽけな平等感(誰にでも出来るという)くらいのものであろう。
 安直な誰にでも出来るものが尊ばれるわけが無く、安直な世界での評価でその価値が決められていくのだ。

 馬渕・庄司両氏の作品と自分の作品との比較を怠り、我々の世界は違うのだから、といった姿勢が、若い作家の方から伺えたのはまさに前述の空虚な思想の現れであろう。
 大切なのは自分が何を表現したいかということであって、表現の手段を磨かずしてどうやって表現ができるのだろうか。言い換えれば自分の指を、手を、思い通りに動かさずしてどうやって思ったものが作れるのだろうか。自分を表現する為の素材を深く見つめないでどうやって素材に自分を込めることが出来るだろうか。
 工芸的という言葉を狭量な価値観で使うよりも、工芸の中に学ぶべきところを見いだせたら、、というのが松井さんの意図するところであったかどうかは判らないが、テーマの問いかけに対して、若い作家の方々はどう感じられたのだろうか。

 経済の問題を等閑にしているという馬渕さんの再度に渡る指摘が、ほとんど意識されていなかったたことも残念だった。それは彫刻作家の方々のほとんどが学校の先生をして居られることも一つの原因かもしれない。If you can't,then you teach it.の格言通りでは困るのだが、それも致し方ないことかも知れない。

 少し毒を吐き過ぎたが、年代の少し違うおふたりの先輩が作り出しているものに対しての、若い世代の向き合い方が、甘すぎるのではないかという印象を強く受けたので、ここに書いた。
 読んで頂いた方からのご意見も伺いたく思う。      --2010/3/29改稿---
by t-h-arch | 2010-03-28 09:10 | 木工
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