僕が小さい頃、我が家を訪れる黒田征太郎さんは、その風貌とは反して「紳士」だった。
子供に対してもほぼ敬語に近い言葉で自分の仕事のことまでも話して呉れ、何に関しても礼儀が正しく、小さなことを気にしなかった。 黒田さんがテレビ・コマーシャルに出演しているのを見た時に、何かしら違和感の様なものを感じたので、次に会った時にどうしてテレビに出たの?と聞いてみたら、「あるひとがしたいことがあって、その為にお金が必要だったんです、テレビに出ると恥ずかしいけどその恥ずかしさの分だけたくさんお金が貰えるんです」と返事されて大いに納得した憶えがある。 小学校の夏休みの工作で作った新幹線の絵の入った稚拙な額縁を黒田さんが見つけ、手放しに褒めて呉れた。黒田さんは絵描きなのにと謙遜すると「僕は絵を描いて食べてますが、きっと謙之輔さんは僕が描いた絵なんかよりずっと泰輔の絵の方がうれしいんだよ、僕は食べる為に色々と考えて絵を描いているけど、泰輔達子供は自分の描きたいものを自然に描く、親にとってはそれが最高の絵でそれ以外は要らないくらいなんだ、僕は子供が最大のライバルです、もっと絵を描くことがうまくなって、子供の絵のような絵を描きたい、いや描けないなら何が出来るかを考えます」と真剣に言われた。その言葉もとても「確からしい」言葉だった。 先代が東京で個展をする時には、黒田さんは相棒の長友啓典さんと花を届けて下さり、会場に脚を運んで呉れ、父親を褒める言葉をかけて呉れた。 東京での黒田さんは「業界のひと」だったが、話しかけてくれる口調はいつものままで、慣れない街に居る僕にとっては救いのような気がした。 大学に入り東京へ出ると、黒田さんは先代に僕に遊びにくるよう伝えて呉れ、繁華街にある事務所にお邪魔するようになった。黒田さんは居たり居なかったりだったが、居ればやっている仕事の説明をしてくれ、僕が建築を勉強していたので、壁画の話しやコンストラクションの仕事の進め方の話しをしてくれた。酒を少し飲むこともあり、著名人がふらっと寄られたり、目の前で仕事が決まったり、刺激的なことを多く見聞きした。 ある日曜に都内の通りを歩いていたら偶然黒田さんにお会いした。お互い買い物をしていたので、何を買ったの?などと話して別れようとしたら、黒田さんが思いついたように「泰輔、仕事手伝わない?」と言って呉れた。「事務所に電話してくれたら判るようにしておくから」と言われ、そのように現場に向かい、手描きポスターやショウ・ウインドウのディスプレイなどの助手や雑用をした。 最初の手描きポスターの仕事は墨のひとふでで黒田さんが描いたものを墨が乾いたあとでクレヨンで色や模様を描いていくというもので、狭いスタジオで墨描きされたポスターを乾かす為に拡げ、他の利用者さんに平謝りしながらも図々しくよそのスペースにも拡げ、乾きのよいものから集めて色入れの準備をし、色が入ったものを養生するといった工程、用紙の引きが遅いとギロっと睨まれ、早く引き過ぎると睨まれ、乾きが間に合わず手が空くと「完全に乾いてなくてもいいんだよ!」と叱られ、閉鎖されたスタジオの中でどれだけ時間が経ったのかも判らないくらいだった。片付けが済んで、事務所に寄ると手描きの絵が描かれた封筒を渡され、中にはアルバイト賃が入っていた。 ディスプレイの仕事ではショウ・ウインドウに何も入らない額縁を乱雑に撒けと言われたのをどう撒いたらいいのか判らずぐずぐずしていたら突然外部のディレクターチェアに座っていたはずの黒田さんがウインドウ内に現れウインドウを壊すくらいの勢いで額縁を撒き始めた。額縁のガラスが割れ、黒田さんは足にけがをされたが時々止まってはものすごく考えながら額縁を撒き続けた。 銀行の全国の支店のポスターを手描きするという仕事では黒田さんと長友さんの事務所「K2」のOBの方も応援にいらして、沢田としきさん、村上みどりさんなどと知り合うことが出来た。手描きにも多少慣れ少しは気遣いが出来るかもとK2の芦川さんと2人で色々と工夫をしながら幾日かを手伝ったが相変わらず何かをしては睨まれ、気を遣っては失敗してばかりだった。 その仕事の後、村上さんが篠原勝之さんの工場に連れていって呉れ、篠原さんの手伝いもさせて頂いた。 「クマさん」こと篠原さんはそれは親切に僕をを連れ回してくれて、冗談ぽく「うちにこねぇか」と言われたり、ダッジ・バンの大きいのを買われる時「おめぇ、これを運転出来るか?」などと聞いてくれていた。 僕は大学の4年生で卒業制作を手がけていた。ちょうどその頃、名古屋駅に大手物販店が東急ハンズのような店舗を開店し、その杮落しの展示に黒田さんがエッチングの個展をすることになり、その版画の額縁を杣工房が引き受けた。額縁の製作の依頼に付知に来られた黒田さんを先代は遠縁の旧家の解体現場に誘い、その解体された廃材となる木で何点にも及ぶ版画の額縁を作ることを提案し黒田さんも賛成し工房のメンバー総掛かりで荒々しい額を作った。黒田さんはその額をとても気に入って呉れ、作品の売り方にもデリケイトな考慮をして下さった。僕も便乗して卒業制作のタイトル図面の額を同じ材で先代に作って貰った。 卒業制作も終わり、僕は広告関係の就職先をいくつか内定頂いていたが、諸々の事情で京都の工務店に就職することになった。黒田さんにその由を伝えると「泰輔はクマさんとこに行くんじゃなかったの?」と言われ、気にかけて下さっていたことに気付き失礼な自分が悲しかった。黒田さんや篠原さんに対しては半ば逃げるような気持ちで京都へ移り住んだ。 京都で仕事に就いて幾月か経った頃、職場の上司に「クロセイさんがライブ・ペイントをするから行かないか」と誘ってもらった。黒田さんとのことは上司に話をしていたので気を遣ってくれたのかもしれない、仕事が終わり大急ぎで大津の会場に入り、既に始まっていたライブ・ペイントを見ていたら、環境の変化や仕事社会の厳しさにへこたれていた自分の中で、何かが浄化されるような気持ちになり嬉しかったのを憶えている。 ライブが終わり会場から出ようとしていたらステージ袖から黒田さんが出て来られ「自分!!泰輔!来てたの判ってたよ!」と声を掛けて呉れた。上司を紹介し、連れて来て貰った由を話し、黒田さんにも大阪の事務所へ遊びに来いと言って頂いた。 大工の小僧の期間があっというまに終わる頃、たまたま帰郷すると先代が「レリーフを彫りたい」と言った。 「頼まれている百貨店での個展に、竹取物語か不思議の国のアリスのような童話をスライド・ショーのような何枚かの平面彫刻にして出したい」とのことだった。 「絵は黒田さんが描いてくれる、お前は板に合わせてどの場面を何枚の絵にするか決めて、黒田さんに提示するコンテを作ってくれ」と言われ、コンテを書いて黒田さんに送った、制作の過程が気になったので、しばしば付知に帰り、少し手伝ったり展示方法を話し合ったりした。 名古屋での個展には僕の親方も出向いて呉れ、おかしなレリーフを眺め、百貨店の重役方に先代をプッシュして呉れた。 アリスのレリーフもまた「どこかの公園のベンチにでもしたいですねぇ、、」などと話したきりで梱包されて倉庫に仕舞われることになった。 その後、中津川の老菓子舗「すや」の支店を建てたときも、黒田さんに売場と勘定場を仕切る大襖に、栗の木の絵を描いて頂いた。 「すや」竣工後も色々と大工事の片付けや後の仕舞いがあって、一、二年は工房がバタバタしていただろうか、それが落ち着いた頃に黒田さんは日本を離れアメリカに行ってしまっていた。 ---続く---
by t-h-arch
| 2015-04-25 22:47
| 木工
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